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求人倍率について
求人倍率とは、求職者に対する比率をいい、求職者1人あたりの求人数を示します。
外為の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置する。現在の島根県東部にあたる。雲州(うんしゅう)と呼ばれることもある。延喜式での格は上国、中国。
出雲は稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説がある。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であり、出鉄(いづもの)からきたという説もある。
日経225は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力である。
この律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。国譲りの交換条件として建立された出雲大社は、いまだに全国から参拝が絶えない。更には、出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造家(北島氏、千家氏)は、天照大神の第二子天穂日命の裔孫として、天皇家と同等の血統の長さを誇り、この「国造」と言う呼び名も古代律令に用いられていた官職名であることからその歴史の長さを読み取ることが出来る。
その後律令制の下では出雲国造の領域を元に、7世紀に設置された。
FXは意宇郡にあり、松江市大草町に国府跡が発掘され公開されている(また、現在の東出雲町阿太加夜神社周辺という説もある)。 平安期には東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。東部出雲は荘園守護の管轄下となり、月山富田城(現:安来市広瀬町)を中心とし製鉄を支配し雲伯地方を押さえた戦国大名尼子氏を生み出すこととなる。
江戸期に入ると、松江藩が設置され東部出雲は松江、西部出雲は出雲国造の影響下に入ることとなる。更には、松江藩傘下の東部では明治期に見られた廃仏毀釈の逆の影響が認められたりもする。つまり上古より同じ出雲でも、東西の主権が別々の歴史的見解を残すため、出雲の歴史はわかりづらいものとなっているとの指摘がある。
伝統産業であった製鉄で財を成した出雲三名家(田部家、桜井家、絲原家)は、現在も島根県下の実力者である。
『延喜式神名帳』には大社2座2社・小社185座の計187座が記載されている。大社は意宇郡の熊野坐神社(現 熊野大社、松江市)と出雲郡の杵築大社(現:出雲大社、出雲市)で、どちらも名神大社である。古代には熊野大社の方が上位で一宮とされていたが、中世に逆転し、出雲大社が一宮とされるようになった。二宮以下は存在しないとみられるが、佐太神社(松江市鹿島町)を二宮とする説がある。総社は六所神社(松江市大草町)である。
10月の異称の「神無月」は、その宛字から「神がいない月」と解釈され、全国の八百万の神々がこの月に出雲に集結し、縁結びなどの会議(神議り)をするという伝承がある。これは中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた説であるが、現在でも出雲では10月を「神在月」と呼び、出雲大社ほかいくつかの神社では旧暦10月10日ごろに神を迎える祭、その1週間後に神を送り出す祭が行われる。
国宝松本城を中心とする旧城下町である。幸にも戦災を免れた事から、旧開智学校(重要文化財)などの歴史的建造物が多く残る。他に戦災を免れた中規模の旧城下町としては、金沢市や川越市などがある。
キャッチフレーズは「文化香るアルプスの城下町」、「三ガク都(楽都、岳都、学都の三つのガク都。音楽、山岳、学問で有名なため)」などがあるが、前者が多く使われ、後者はほとんど見られない。
日本で最も古い小学校のひとつ開智学校の開校、改正高等学校令に基づく全国9番目の官立旧制高等学校である松本高等学校の招致など、教育に熱心な面が過去にはあった。また、小沢征爾ら一流の音楽家の集うサイトウ・キネン・フェスティバルの開催、全国に(一部海外にも)広がるスズキ・メソードや花いっぱい運動の発祥、映画やテレビドラマなどのロケ支援を市が行うなど、文化を尊重する気風は今も健在である。
県庁所在地ではないが、FM長野本社、日銀松本支店、松本空港、信州大学本部、陸上自衛隊松本駐屯地などがあり、さながら県中部に位置する「副県都」のような存在になっている。国立大学機構が1県1学の県に於いて本部が県庁所在地以外に置かれているのは、青森県の弘前大学と沖縄県の琉球大学のみである。また特に日銀の存在は松本市をして、長野市とともに複眼構造を為すことにより、県の経済の中心に押し上げる役割も持っている。
商業販売額は長野市に次いで県内二位だが、松本パルコなどの人気の高いアパレル商業施設を抱え県内各地から消費者が訪れることや、市街地型複合店舗の立地数が県内では最多である。
又、工業生産額が安曇野市、上田市に次いで県内で三位であり、県内工業の拠点の1つである。また、信州大学本部の存在や毎年恒例のサイトウ・キネン・フェスティバルの開催もあって、長野県の工業、商業、観光、文化、教育の一大拠点となっている。
近年高層マンションの建設が相次いでおり、この中でいかに城下町の景観を守るかが課題になっている。2008年4月から「市都市景観条例」が改正され、松本城周辺の建築物の高さ規制が厳しくなることから、現在マンション建設を前倒しする動きが見られる。これに対し、周辺住民の反対意識は強く、既に完成した縄手通りのマンション建設には建設反対運動が起こった。
中心市街地は古くは深瀬郷(深志郷)、捧庄(ささげのしょう)または庄内、信濃府中または信府あるいは信陽などと呼ばれていた。 捧庄、庄内の由来は国衙比定地とされる市東部にあった八条院領の荘園で、現在市内にある本庄、庄内という地名はこの名残であると考えられる。「信府」は国府が置かれたことに由来する「信濃府中」の略称、「信陽」はそれを漢文調にしたものである。以上の地名は現在ほとんど使われていない。
現在、最も人口に膾炙するのが深志で、太古の松本盆地が湿地帯であったことを示すとされる「深瀬郷」が転訛したものであり、現在でも社名、校名などに使われている。
現在の市名である松本の由来は諸説あるが、通説では武田氏の侵攻により落ち延びた嘗ての信濃守護職・小笠原長時の三男小笠原貞慶が1582年に旧領を回復した際に「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」と述懐し改名したとされる(小笠原氏は長らく信濃府中奪還という本懐を抱いており、それが叶ったことから、待つ本懐を→松本懐→松本 と略され松本となった)。他に、小笠原宗家(府中)が分家(松尾)とのお家騒動に勝利したことを記念したとする説があるが、内訌は約50年前に片付いており、この説は時代的に合わない。「松本」という氏姓は松本市の「松本」地名よりも遥か昔から存在するが相関はなく、松本市に松本氏が多いということはない。市役所等によって「広報まつもと」のようにひらがなで表記されることもある。
また、松本市周辺や松本地域は松本平、筑摩(筑摩野とも)などと呼ばれる。前身の松本町が東筑摩郡に属していたため、旧筑摩県名の由来にもなった。
日本で三番目の高さを誇る穂高岳
松本市は、長野県の中央からやや西の所にあり、県庁所在地の長野市から南西へ75km、東京特別区から西北へ240kmに位置している。2005年の合併後の市域は、西の飛騨山脈(北アルプス、西山、3000m級)から、東の筑摩山地(美ヶ原、東山、2000m級)までと広大であり、長野県内では最も広い(全国の市では二十位)。旧松本市(松本駅周辺など)は、二つの山脈(山地)の間にある松本盆地の中央部、複合扇状地上に位置する(標高約600m)。
川では、上高地方面から流れ出す梓川が市の西部を流れ、奈良井川が市を二分するように横断している。また、市街地には清流である女鳥羽川が横断している。女鳥羽川はもとは現在の大門沢川のルートを流れていたと考えられるが、江戸時代はじめに人工的に流路が変えられ今の姿になった。山では、合併に伴い日本百名山の山が多数松本市に編入され、岳都(学都、楽都とならび松本市のキーワードとなっている)の側面が強くなった。松本市には標高第三位の穂高岳や第五位の槍ヶ岳があるが、市街地からは手前の常念山脈に隠れて見えないため、市民には常念岳や美ヶ原のほうが親しまれている。中部山岳国立公園、八ヶ岳中信高原国定公園が市内にあり、前者には特別天然記念物のライチョウが生息する。また、景勝地の上高地も市内にある。
市内には多数の扇状地が形成されている。また、松本市はフォッサマグナの上にあり、市西部には糸魚川静岡構造線が通っている。市内には地震関連のテレビ番組などでもよく紹介され、30年以内のマグニチュード6・5以上の地震発生確率が25.21%と全国で最も高い断層「牛伏寺断層」が通っている。市域は5000万年前は海底にあった。
森林面積は74,000haで、市域全体の約81%を占める。また、平成の大合併により山間の村と合併したため、人口密度が大幅に低下した。(合併前:県内二位→合併後:県内二十一位)
旧松本市は、中央高原型(5d)の内陸性気候が顕著に現れる所にあり、大半の学校教育用の地図帳で、中央高原型気候の都市の例として扱われている。そのため、松本測候所は、中央高原型の代表として直達日射観測も行っている。基本的には平野部は降水量が少なく日照時間が多い。上高地や乗鞍高原、美ヶ原などの山岳地帯は若干降水量が多く日照時間は少なくなる。市内では安曇地区が豪雪地帯に指定されている。