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学校法人について
私立学校の設置を目的として、私立学校法に定めるところにより設立される法人のことです。民法の規定が多く準用されますが、財団法人より一層強い公共性をもっています。
学校法人を設立しようとする者は、寄附行為において、その目的、名称、設置する私立学校の種類、名称等所定の事項を定めた上、法令で定める手続に従い、所轄庁の認可を受けなければなりません。
データ復旧は「アジアの列強植民地の解放」という名目で、当時欧米列強諸国の植民地であったマレー半島やシンガポール、中国大陸などアジアのほぼ全域に進出、欧米列強諸国の植民地政府を廃止し占領、軍政下においた。また、占領地のなかのいくつかの地域については、日本に友好的な指導者を後押して独立させた。
しかし戦争当初の目的として資源確保のためにこれらの地を占領した日本にとってそれまでの宗主国の持っていたような資源・資産面など対植民地での優位な状態を保つことが出来ず、これらの地においては軍政の名において当初の目的以上に搾取することを余儀なくされ、各地に人的・資源的に過酷な状態を招いた。日本はこれらの国々に戦後賠償としての意味合いも含め、政府開発援助(ODA)を行うことになる。
なかでも、第二次世界大戦以前から統治・戦争状態が長かった後に戦勝国となる中華民国に代わり現在中国大陸を統治する中華人民共和国や、現在中華民国の統治下にある台湾を別として大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国といった当時、併合した国や保護下においた地域にその後できた三国との間に対しては遺恨を残すことになった。朝鮮民主主義人民共和国以外では戦時賠償問題が国際法上既に決着している一方で、これらの国の国内事情も絡んで、現在でも歴史認識などの問題 [43]で日本側が非難されることが多く、中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国では激しい反日教育が行われている。又、大韓民国では日本統治時代の親日派の子孫の財産を没収する親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法や日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法の制定など、反日的政策が実行されている。(特定アジアの項も参照。)
皇室制度
監視カメラと連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサー総司令官天皇制を維持するか否か(国体問題)は、連合国占領軍の大きな課題であったが、長年の間多くの国民の支持を受け続けていた天皇制を廃止すると逆に占領統治上の障害が生じるとして、ソビエト連邦やアメリカ軍内の一部の反発を退け、北東アジアにおける共産主義の伸張を食い止める目的もあり、天皇制は維持されることに決定され、昭和天皇の戦争責任も追及されずに終わった。
上記の決定に伴い、昭和天皇は統帥権の放棄を行うなど戦前に儀礼的に就いていた全ての地位から退き、新たに「国民の象徴」という地位を持つことになった。
天皇制こそ維持されたものの、アメリカの指導により華族制度が廃止され、また、直系の皇族以外は皇族としての地位を失う(臣籍降下)ことになった。
1910年の日韓併合と同時に日本の王公族となった李王家の継承者である李垠は、これに合せて臣籍降下され事実上李王家は廃絶された。その後大韓民国が設立された後も李承晩大統領の妨害などもあり王位に戻ることはなかった。
新憲法
看護師 求人のマッカーサー総司令官の指示、決裁の元、アメリカ人がその大勢を占める総司令部の民政局長であるコートニー・ホイットニーらの手によって新憲法の草案が作成された。それを基に日本政府案が作られ、帝国議会での審議を経て、1946年11月3日に「日本国憲法」として公布された。
アメリカはこれ以前にも影響下に置いた中南米の国々に、アメリカにとって有利な内容を含む憲法[44]を半ば強要したことがあり、日本国憲法の制定もこれに習ったものだとの見方がある。また、日本国憲法が軍隊廃止条項をもつことから、冷戦時代は日米間の軍事協力に不都合なものとなり、冷戦後には国連などによる国際協力体制で軍事力の行使を含む平和維持活動を求められた際に問題となっている。このため冷戦時代より、この憲法が日本を不当に押さえ込む「押し付け憲法」と考え、改憲により「自主憲法」に変えようという主張・勢力が成立当初から存在したが、近年では自由民主党や民主党の保守系議員の一部を中心にその動きが盛んである。一方、日本社会党などの左翼政党はこれを軍備放棄の政策として歓迎(日本共産党は1960年代まで自主軍備や天皇制反対の立場から憲法改正を主張)、現在でも社会民主党、日本共産党などは護憲を主張しており、これらの間で「憲法改正論議」が冷戦時代から現在にかけて議論されている。
転職サイトは1945年8月のソ連軍の侵攻後に、事実上の宗主国である日本が連合国に降伏したため瓦解し、その後、中国東北部の支配権はソ連の占領を経て中華民国に返還された。
皇帝である愛新覚羅溥儀は8月に退位し、その後日本へ逃亡する途中に侵攻してきたソ連軍に一緒に行動していた側近・閣僚とともに捕らえられ、その後1950年に中華民国の国民党政府ではなく、ソ連と友好的関係にあった中華人民共和国の中国共産党政府に引き渡され戦犯として服役した。
なお、皇室の一部は戦後日本に逃れたものの、溥儀の退位と逮捕、その弟である愛新覚羅溥傑などの主要皇族の逮捕に伴い皇室も事実上消滅した。
中華民国国民議会代表(1946年)清代以来日本が租借していた関東州を全て回収し、崩壊した満洲国に代わり満洲全土での主権を回復した。ただし、同盟国であるソ連の要請により、旅順・大連両港や旧東清鉄道の租借権が改めて貸与された。
フランスから広州湾租借地の返還を受けたが、イギリス領や同国租借地を含む香港はイギリス支配に復帰した。なお、マカオは中立国のポルトガル領であったことのみならず、租借地や戦争で奪い取った地でないこともあり、ポルトガル領のままとなった。
日清戦争で失った台湾島を日本から回復し、台湾島の住民も当初はこれを歓迎した。しかし、当時国共内戦を戦っていた中国国民党による過度な大陸への物資輸出と大陸からのインフレ波及により、台湾経済は混乱した。また、中国国民党は日本人に代わる特権階級として振舞い、台湾島住民の排斥と腐敗が横行した。中華民国政府による急速な中国化政策の推進は、台湾島住民との間に緊張を高めた。こうして1947年に二・二八事件が発生した。
台湾島を訪れた蒋介石と宋美齢夫人(1946年)上記のように、終戦以降連合国および戦勝国としての正式な地位は、日中戦争(支那事変)から長い間日本軍に対しての戦いを続けていた中国国民党の蒋介石率いる中華民国にあった。しかし戦後4年経った1949年に、ソビエト連邦の支援の下国共内戦に勝利した中国共産党が北京に中華人民共和国を樹立し、敗北した国民党は中国大陸から台湾島に遷都した。その後冷戦下で東西両陣営による政治的駆け引きが行われた末に中華民国が1971年に国際連合から追放されたことで、戦後20年以上の時を経て、戦勝国と国際連合の常任理事国としての地位を終戦時には国家として存在していなかった「中華人民共和国」が引き継いだ。
東南アジア地域では日本軍を排斥した欧米各国が植民地に対する支配の回復をはかったが、様々な要因[45]により、大戦後に多くの東南アジアの植民地は独立を果たした。
第二次世界大戦以前より独立国であったタイ王国は、日本軍との一悶着の末、枢軸側として参戦したが、その裏では在米タイ公使館のセーニー・プラーモートがピブン政権と絶縁し東南アジア向けの反日放送を行ったり、ピブン内閣の実力者プリーディー・パノムヨンらが在日大使館を中心に日本内外に広範なスパイ網を構築し、情報提供によって米軍の日本本土空襲を支援するなど、連合軍側への鞍替えに向けた活動も行っていた。これはいわゆる「自由タイ」抗日運動として知られている[46]。自由タイはタイ国内ではピブーンによって半ば公認された活動となっていき、日本の敗戦の色が濃くなると、また日本と結んだ条約で内政が悪化するとピブーンは1943年首都を日本軍の影響が少なく、陸軍の部隊のあるペッチャブーンに移転する計画を秘密裏に画策、民族主義的な思想の持ち主であったルワン・ウィチットは1943年10月30日外相を解任され、代わりに自由タイのメンバーとして知られていたディレークが外相に任命された[47]。1945年8月16日、プリーディーが摂政の立場で「対英・対米への宣戦布告は無効であった」との宣言が出された[48]。こうしたタイの二重外交は戦後、アメリカの政策と相まって成功しアメリカはタイを敗戦国とすることを避けた。
一方で、イギリスはほとんど敗戦国として処理したといえる。イギリスは終戦時、速やかに平和条約を結ぶことは拒否[49]、さらに米を賠償させた上で翌年の1946年1月1日にようやく平和条約を結ぶことを許した[50]。また、タイ王国は戦時中に回復したフランス領インドシナの一部、イギリス領マレーおよびビルマの旧タイ領土を再びフランス、イギリスに取られた形となった。しかしながら、連合諸国による本格占領とこれに乗じた植民地化を免れ、続いて独立国としての立場を堅持することになった。
ホー・チ・ミン日本から独立が与えられていたフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)がインドシナ共産党の主導下で八月革命を引き起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。その後、9月2日に、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。
ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンと武力衝突した。その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などベトナムの分離工作を行なった。これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。